やり返さないのが大人?うっせえやり返せ!

 

 

まず、2つの場面を見てみましょう

 

場面1

 

Aくん「お前の顔面クレーターみたいだな。汚ねぇ失せろ。」

 

Bくん「わかったよ。僕が悪いんだ。ごめんよ。」

 

大人「Bくん。あなたはやり返さなかったのね。えらいわね。」

 

 

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場面2

 

Aくん「お前の顔面クレーターみたいだな。汚ねぇ失せろ。」

 

Bくん「うっせえ雑魚。お前目開いてんの?爪楊枝かと思ったわ。」

 

 

    〜    乱闘    〜

 

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大人「Bくん!なんでやり返したの!やり返したならあなたも同然よ!」

 

 

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さて、この2つの場面での共通点はなんでしょうか。

 

答えは簡単で、やり返さないことが「美化」されていることです。

 

これは、学生時代に誰もが目にした事のある光景ではないでしょうか。また、経験された方も多くいると思います。

 

では、このやり返さないことが「美化」される事による問題点は何でしょうか。

 

現代人の皆さんはどうやら悲観的な方が多いようです。

 

少し元気で前向きな考えをしている人を見ると、ポジティブだねと賞賛されるほどです。

 

しかし、違います。悲観的なのがいけないのです。

 

悲観的になる理由はなぜか。

 

みなさん自分に自信がなく、謙遜しているのです。

 

先程の場面ですが、やり返さない事が「美化」される。

 

つまり、「自分が恐れ多い存在であるということを認める」という事が「美化」されているのです。

 

これが小学生ぐらいから学校教育の場において、大人たちから刷り込まされているのです。

 

また、その大人たちもさらにその上の世代から教え込まれているのです。

 

これは日本の悪しき伝統です。

 

なるほどそのトラブルの現場で謙遜をすればその場は冷静に解決するかもしれません。

 

そして、周りの方や大人から

「あなたはやり返さなかった。偉いわ。」

と言われます。

 

しかしこれは錯覚であるのです。

 

実際は腹が立って仕方がないが、私はやり返さなかった偉いんだと自分の心に「嘘」をつく事になるのです。

 

これを繰り返していく結果、多くの方は自分に自信を失います。

 

虚構で心が満たされ始めます。

 

それは、「謙遜」という言葉で大体は美化されてしまっていますが、決して美化されるべきものではありません。

 

(もちろん、正しい謙遜というものも存在しますが、今回は自分に自信を無くしてしまっている状態を指します。)

 

人間、自分を信じる事ができなくなったらそれはもうおしまいです。

 

自分に自信をなくす事によって何が起きるか。

 

よくあるのが、自分に自信がなく自分は何もすることができないので、他人をおとしめようとするのです。

 

もう気づかれたかもしれませんが、ここからは負の連鎖が始まります。

 

自分に自信を無くし他人に攻撃的になってしまった人から、被害を受けた方はどうなるでしょうか。

 

また、先程の美化が適用され、謙遜するのです。

 

どこかでこの負の連鎖を断ち切る必要があります。

 

 

 

「その場でやり返す」

 

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これが重要になってきます。

 

やり返した後はスッキリするものです。

 

自分の中にモヤモヤを残してはいけません。

 

ですがこれに関しては柔軟性を持たせてあげなければなりません。

 

なぜなら、当事者2人のみの場合などでしたら、最悪の事態を招きかねません。

 

死ぬところまでやり返すという事が起きてもおかしくありません。

 

ですので、その場で冷静に考えるのです。

 

今ここでやり返しをしたら、後はどうなるのか。

 

いい感じで終わったり、誰かに止められたりして、最終的には怒られるだけなのか。

 

それとも、歯止めがつかなくなり、殺人や大きな障害を招きかねないのか。

 

これらを冷静に判断をする必要があります。

 

これが、自分の心に嘘をつかず正直になるための必須の手段だと思われます。

 

こうする事で、トラブルの後も自分の心に嘘もつかず、さらに相手はやり返されているので少しは反省するでしょう。

 

正義と自信に満ちた人間というものは、とても強くたくましく、美しくうつるものです。

(自信過剰はいけません)

 

ぜひとも、多くの方が実践していただきたい。

 

 

これで解決できない場合は第三者(弁護士や法的機関など)に頼みましょう。

 

 

 

素っ気ない

7/11

 

地球温暖化の影響かどうかわからないが、年を重ねるたびに、梅雨入りと梅雨明けが後ろになっていってる気がする。紛れもなく今日も梅雨真っ只中で、昨日が珍しく雨がやみ34度に到達したせいか、各地でゲリラ豪雨が起こったらしい。僕の住んでいる町も例外ではなく、まるで屋根に弾丸が落ちてきているかのようなけたたましい騒音が、昼過ぎ辺りから鳴り響いている。雨の音が心地よいという人がいるが、僕は特別そうとは思わなく、むしろ好きではないと言っていいだろう。そんな僕にとって梅雨はただの苦痛でしかない。音もそうだが、頭痛持ちなのでそれもなお辛い。低気圧のせいで、まるで頭が締め付けられているかのようだ。こればかりはなってもらわないと分からない辛さがある。母はいわゆる「病は気から」という言葉というか迷信をやけに信じているようで、僕が頭痛を訴えても、とくに何もしてはくれないし、理解を全く得ることができないので、更に痛みが増す。気がする。

 

最近、少し高いステレオを買ったのでよく自分の部屋に籠もって、良い音を楽しんでいる。そんな僕にとって、梅雨というのはもしかしたら都合がいいのかもしれない。今日もあったのだが、部屋に籠もりながら自分の空間と時間を楽しんでいる時に急に母にドアを開けられることほど、イライラする事はない。開けられた後に、僕はなぜやるんだと喚くが、出ていったあとでもどこかわだかまりが残ってしまう。なので、その後リビングへ行き、また愚痴をこぼす。これでやっとスッキリする。だが決まってこう言われる、「神経質すぎだ」と。ただ言っておきたい。神経質であるということは、ふつうの人が気づかないだろうことにも多くのことに気づくことができるのでとても楽しいのだということを。まあ、嫌なことも人一倍気づいてしまうのだが。例えばだが、僕の部屋の目の前の廊下を挟んで右に5歩ほど歩いたところに兄の部屋がある。その部屋のドアが空いていることに気づき、イライラしてしまう。もちろん僕の部屋のドアはしまっている。決して兄がなにかの音を出しているわけではないが、気に触る気配らしき何か感じ取ってしまう。それで、毎回閉めに行くのだが、そのときは兄は何も気づいていないかのようだ。鈍感すぎる。いや僕が敏感すぎる。どっちもどっちだな。

 

ならば気付けるものでいいことは何だろう。間違いなくこれは気づけていいと言えることは、部屋の角に落ちてる陰毛に気づけることだろうか。これは非常に素晴らしく、急に部屋に友人が来るということになったときに「うわ、お前きったな」と言われる、なんとしてでも避けたい不測の事態を確実に回避できる。感度は間違いないもので、圧倒的なオーラを感じることができる。どうだ、これだけでも羨ましくて仕方がないだろう。

 

こんなしょうもない考え事をしている間に、夕方になった。考えることは素晴らしいと以前から信じていて、思考を繰り広げるうちに常人にはたどり着けないようなどこかに到達できる気がする。太宰治のような人間になりたいとホンキで思っていたことがあるが、彼の代表作「人間失格」を読んでいるときに、なんというか、自意識過剰の痛い人、あるいは今のJK言葉で言えばメンヘラの様に見えて仕方がなく、途中で読むのをやめてしまった。だが、今の僕も大概だろう。もう一度、手にとってみようかな。

 

本を読むことは素晴らしいと小学生の頃から多くの人が言い聞かされてるだろう。これに関しては、間違いないと言い切れる。僕が保証しよう。半年ほど前に高校をやめてから、一人の時間が圧倒的に増えたので本を読み始めた。最初は、趣味は読書ですというのがかっこいいのでは、というなんとも情けない理由から始めたのだが、読書にはそんなかっこいいとかどうでもいいくらいの魅力が詰まっている。純文学は考えすぎてしまうのでまだあまり読めていなく、いつもはエッセイや思想、評論などを読んでいる。なんというか、誰かの頭の中に触れるのがとてつもなく楽しい。また、それらに影響されながら自分の考えが構築されていくのも最高に楽しい。こればかりは多くの人が共感してくれるのではないか。

 

だが、こんなことばかりしていても仕方がないので、今日は珍しく純文学を手にとった。伊坂幸太郎の「砂漠」という青春小説だ。感のいい人は、アホだこいつと思っただろうか。高校をやめた今、僕は青春とは程遠い存在にある。そんな奴が青春小説を読もうだなんて馬鹿げている、今これを書いていて切実にそう思う。だがなぜだろうか、数時間前の僕はこんな単純明快なことにすらも気づけないほど可哀想なやつだったんだろう。読んで一時間ぐらい経ったところで、心に三日月蹴りを食らったかのようなでかい穴が空いていることに気づいて、途端に虚しくなった。想像を絶する虚しさだったので、しばらくベットで目をつむって頭を空っぽにしていると、親友から一通のラインが来た。

CB400の音が良いマフラー探してくんね?スリップオンがいい」

お前は呑気でいいなあ。そのあとしばらくラインしていたら自然と元気が湧き出てきたので、机に向かって今に至る。改めて、友人の大切さと自分のしょうもなさを実感させられた。もっとシンプルに生きたいんだけど、一人になるとどうしても深く考え事しちゃうんだよね。誰か、24h僕のそばに居てくれませんかね。

とやかく、CB400納車したら後ろ乗せてくれよな。